大髙醤油 昭和物語 ⑤フジトラつゆ誕生秘話(1)
こんにちは。大髙醤油先代社長、現在は会長の大髙和郎です。
シリーズ・大髙醤油昭和物語、第5回目です。(前回はこちら)
今回から、当社の基幹商品のひとつ「フジトラつゆ」がいかにして生まれたかのお話をさせていただきます。
第5回 フジトラつゆ誕生秘話(1)
伊勢丹料理長の何気ないひとこと
昭和40年、実家の大髙醤油に戻り、本格的に家業に携わるようになりました。
時代はまだ好景気が続いていましたが、醤油業界に限ってみると、中小の醤油蔵にとって試練の時期を迎えていました。
人から聞いた数字ではありますが、戦後すぐの頃、醤油の醸造元は日本全国にざっと6000軒はあったようです。
その数は徐々に減って東京五輪の頃は約4000軒。その後も生き残り競争による淘汰は激しさを増していました。
大規模な工場を有する大手の醸造元が強くなったことも我々中小零細の蔵に影響を与えたこともあります。
そんな中も、大髙醤油は一貫して醤油のみの製造に専念していました。
しかし価格の安さでは大手には勝てません。
売り上げは年々落ち込み、当時20人ほどの従業員に給料を支払うのがやっとのことでした。
実際お金が足りなくなり、お得意先を回り、来月の売り上げ予定の額を先払いしてくれないか、つまり前借を頼みにいったことも何度かありました。
当然、社長の父も、従業員たちも、浮かない顔の毎日が続き、私としてはなんとか打開策を見出すべく、あれこれ悶々と考えあぐねるばかりでした。
転機となったのは、営業でしばしばお邪魔していたデパートの伊勢丹さんの社員食堂の厨房を訪れたある日のことでした。既に昭和50年代半ばになっていたと思います。
営業時間にはいけないので、朝早くの仕込みの時間にお願いをして入れてもらうと、若い料理人さんたちが野菜を刻んだり、みそを練ったりと忙しく働いていました。
仕事につながるアイデアを求めて、当時の厨房の料理長にいろいろ尋ねていた時です。
「醤油はどこからでも買うことができるけど、醤油の加工品があると助かるんだけどなあ」
と料理長が何気なく言ったのです。
厨房の、朝の仕込みは忙しい。蕎麦のつゆ一つ作るにしても、鰹節を削ってお湯に入れてだしを作り、醤油と合わせる、その作業もそれなりに時間と手間がかかる。
最初から出来上がっているつゆがあれば、料理人たちの負担も軽くなる、ということです。
私は、ハッとしました。
これだ、加工品を作ろう。
うちの醤油を使った蕎麦のつゆを商品化すれば需要がある。
料理長に礼を言ってすぐ地元に引き返しました。
向かったのは、成東駅の近くにある、老舗の蕎麦屋「吾妻庵」さんでした。
玄関を開けると、ご主人が「いらっしゃい。お、早いね」。
それに対する私の返事は、
「お願いがあります。蕎麦つゆの作り方を教えてください!」でした。
ご主人は、きょとんとしていました。
今回はこのへんで失礼します。次回は、ひきつづき「フジトラつゆ誕生秘話」をお伝えします。
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